情操教育

歌舞伎座が建て替えをする。特に個人的感傷はないが、未来に誇れる、且つきさくに入れるものにして欲しいなぁと思う。
学生の頃、突然劇団で芝居をはじめた幼なじみが、これまた突然流しの旅一座を追っかけ*1出した。かく言う時分はそこ時候クラブやらライブ/フェス三昧。一方でこの頃大人の友達に質のよいエンタテイメントを与えてもいただいていた。初新感線の「星の忍者」もこの頃だし、亡きコマで北島三郎さん、都はるみさんのコンサート‥もとい歌謡ショウも拝見させていただいたことがあった。「歌謡ショー+お芝居」混交とした複部構成に若干免疫はあるつもり…だった。
しかし、旅の一座のインパクトたるや、そんなものではなかった。出演者は家族。子供は立てるようになったところで白塗りでステージに立たされ、科白を言い、唄い舞い踊る。幾つであれ、彼等は芸を見せることで自分の食い扶持を稼いで生きる。各地を転々としながら転校を繰り返し、学校の後は公演前まで親が師匠となって稽古を繰り返していることは想像に難くない。そして次回も客に足を運んでもらうためにはどうすればよいか、ときに媚び方まで、親の背中を舞台の上で見て学ぶ。観客はほぼ年配の方々。商店街の洋品店で買ったせいいっぱいのお洒落をして、皆でおやつを持ち寄り、飲み食い・喋りながら芝居を観て、贔屓にはおひねりを直渡しする(その時間が設けてある)。ステージ上の演者ー観客、その距離感の近いこと!しかもお互い生活感に溢れたままの距離感。本当の意味での庶民の娯楽とはそういうもの、強く心に残った。

歌舞伎が庶民の心から離れ、「藝術」という高尚なカテゴリでしか生き残る道を失った現在でも、歌舞伎座は小屋内飲食自由だ。小屋内外ではお弁当やお菓子、何の縁のないお土産まで生計とする方達がいる。がっついて野田を観に来た私の横で、おじさんはフルボディのワインで朗らかに酔っていたし、反対側のおばさんはメモ厨で、休み時間にお茶と軽食を摂り終え、公演中は高らかに笑いながらもひっきりなしにメモをとっていた。
その後ろに親子がいた。未就学か就学したてか位の男の子とお母さん。お母さんが時折江戸言葉を解説している。こっちは本気で観に来ているので聞こえてくる声音をはじめは煙たく思ったのだが、その位の年齢の男の子にこういう機会を与えるのは素晴らしいことだと考えたら気にならなくなった。野田作品はイヤホンガイド要らず、まして言葉遊びや身体的表現が多い。変声期前の甲高い子供の笑い声は次第に周囲に融け込み、話に引き込まれていくのが容易に解った。旧いものを知り、本当の意味での換骨奪胎できるものだけが天才だと、好きな人が言っていた。幼いころからそういう環境を作ってもらえる子は幸せだ。子供の許容量はブラックホールのよう。ただ、インプットするだけでよい。
この作品の無常偈は理解できなくとも、歌舞伎は面白い娯楽なんだ、年齢を問わず、観るスタイルも問わず、自由で楽しいものなんだ。そんな良いイメージを持って帰ってもらえれば嬉しい。私たちはそういう文化を血の中に持っている。そして新しくなった歌舞伎座に、お菓子を手に、大人になったらお酒を手に、気軽に還ってきてくれればいいなと密やかに願う。歌舞伎を形作るのは他でもない、観客なのだ。

*1:関東近県の果ては温泉地まで追っかけていたw